信貴山にお参りに行った折、お寺の方から「空鉢護法堂」はおすすめだから行ってみて。ついでに信貴山城跡と松永屋敷もあるからおすすめですよ。」と声を掛けられて、突然思い立って松永久秀の屋敷跡を目指すことになりました。
行ってみると広くて迷ってしまったりしたので、みなさんが行かれるときの参考になったらいいなと思います。
まずは信貴山(朝護孫子寺)から空鉢護法堂へ
松永屋敷跡には、信貴山から登って行きます。
まずはお寺の方に勧められたひとつ、「空鉢護法堂」を目指します。
本堂をお参りしたら、右手に階段があります。そちらをずっと登っていくと「多宝塔」が見えてきますので、そちらを少し越えた場所から登って行きます。入口が少し暗い場所にありますが、赤い鳥居が並んでいるのでそちらを目印にしてください。
ここからの登りはかなりキツイです。
若草山を登るイメージで行ったらダメでしたー。
若い方なら早く登れるのかもしれませんが、私は休憩しながら登ったので30分以上かかったと思います。
やっとたどり着きました!
空鉢護法堂は、「信貴山縁起絵巻」に出てくる「飛倉巻」に由来して建てられたものだそうで、毘沙門天の眷属、難陀竜王を祀っていて「一願成就」のご利益があるそうです。
途中から曇ってしまって残念でしたが、大阪と奈良の分かれ目を望むことが出来ました。
信貴山城・松永屋敷へ
次は早速松永屋敷に向かいましょう!
地図では空鉢護法堂からすぐなのですが、とにかく行ってみます。
空鉢護法堂から下ってすぐの左手に分かれ道があるので曲がります。
さらにすぐ左手に「信貴山城跡」という碑が建てられています。
登るときに垣根越しに何かあるな~と思っていたのですが、まさかこれだったとは。
現在空鉢護法堂がある雄嶽山頂に、信貴山城の天守(たかやぐら)が建てられていたそうです。
そちらの跡地ということでしょうか。
また分かれ道まで戻って、松永屋敷へ向かいます。
ここから今度は急な下りになります。気を付けて下ってください。
しばらく行くと分かれ道と看板があるのですが、この看板が分かりにくい!
松永屋敷へ行く場合には左手の細い道を進みます。(結局全部回るならどちらから行っても同じでしたが)
本当にこの道で合ってるのかな~と不安になりながら歩いていると、なんか看板がある!
もう着いたのか~~
と思っていたら、「立入屋敷」という場所で、松永屋敷はまだまだ先にあるようです。
さらに先に歩いて行くと、なにやらかわいらしい木で作られた「松永ヤシキ」の看板が!
やっと着いたのか~~~♪
ん?でも看板も何にもないな。味気ないな~と思い、スマートフォンで確認すると、松永屋敷はまだまだ先ではありませんか!
画像でもまっすぐ道があるように見えますが、ここは右に階段があるので、階段を下ってください!
私の後から男性が一人来られていたのですが、ここを終点と思われたのか、先へ進まず前の広場をうろうろしてそのまま戻ってしまわれました。…気をつけなはれや!
なにやら下へ向かう階段を見つけました。やっと松永屋敷に着いたようです。
信貴山城跡
まずは信貴山城の看板がありました。
看板の内容を要約すると、
信貴山城は信貴山・雄嶽を中心とするお城で奈良県では最大級のお城だそうです。築城者は楠木正成という説がありますが、本格的な築城は畠山氏の重臣・木沢長政が行ったそうです。
彼が三好と戦って亡くなったあと、信貴山城も炎上したようです。
その後何年も使われていなかったのち、三好の重臣の松永久秀が築城し、多聞城とともに大和を支配するようになったとのことです。
その後、松永久秀が織田信長に背いて信貴山城に立てこもり、有名な茶器「平蜘蛛茶釜」を砕いて自害し、信貴山城はまた廃城になってしまったそうです。
信貴山城には雄嶽山(現在の空鉢護法堂)に天守があり、北側には土塁と居館施設があったとされ、古地図には「松永屋敷」の記述があるということでした。
信貴山城跡から茶臼や石臼の破片が見つかっているそうですが、この森の中では、破片を見つけるのは難しそうですね。
かわいらしい木で作られた人形がありました。
この旗を目印にしないと、広すぎてどこまでがお城なのか分かりません。
大河ドラマにあやかってるな~と思いましたが、白い旗は順路を知る結構いい目印になっています。
なにせ周りはほぼ何もない森なので。
信貴山で聞いた話では、お寺の男性陣や有志の方が皆で森をかき分けて木を伐採して整備されたそうです。
この広さではとても大変だったでしょうね。
松永久秀(松永屋敷跡)
今度は松永久秀の説明看板がありました。以下要約です。
戦国時代の梟雄(残忍で勇猛な人物)と呼ばれる松永久秀(弾正)の出自や出生はよくわかっていません。
松永久秀は初め三好長慶に仕えていました。久秀は大和へ侵入し、信貴山城に腰を据えると眉間寺山に多聞城を築いて地方の貴族を次々と配下にしました。
三好長慶が亡くなり、久秀の弟、長頼が丹波黒井城をめぐる戦いで亡くなってからは、三好三人衆と対立するようになります。
両者が奈良で激突した折に東大寺大仏殿が焼けてしまったそうです。
久秀は一千貫の大金を投じて買い求めたといわれる名物茶器「九十九茄子」を信長に差し出し、信長の配下に入り大和攻略をすすめました。
しかし、久秀は筒井順慶と戦った「辰市合戦」で大敗しました。
久秀は、将軍足利義昭が企てた「信長包囲網」に加わり、信長を裏切りました。
しかし、武田信玄が陣中で病死し、足利義昭が信長によって京都から追放されると久秀は信長に多聞城を差し出して降伏しました。
筒井順慶が信長に大和支配を認められた翌年、石山本願寺攻めに出陣中だった久秀は突然戦線離脱し信貴山城に立てこもります。
信長にさほど抵抗も出来なかった久秀は、信長の欲しがっていた名器「平蜘蛛茶釜」をたたき割り、城に火を放って自刃したという話です。
松永久秀は大河ドラマにも登場していますが、これからどうなっていくのかも楽しみですね。
まだまだ奥があるので進んで行きますが、左の階段のように木が腐ってしまっている場所もあるので、気を付けて進んでください。
写真がピンボケしていますが、まだまだ奥に屋敷は続いているようです。
何もないと思いますが、せっかく来たのだからどんどん進んでみます。
先までいくと、階段がいくつかあり、どんどん下っていきます。
最終的には行き止まりになり、右手に迂回する道がありますので、道なりに歩いて行きます。
大きな道に戻ってくると、左右に分かれた道があります。
左に行けば「奥の院」に着くのですが、信貴山を存分に楽しんでしまった為、結構日も傾いてしまっていました。
行ってみたかったのですが、今回は諦めて右手の信貴山へ引き返します。
引き返していくと、最初に分かれた道の右手から戻ってきました。
行きは結構な下りだったので、帰りは急なのぼり坂。…キツイです。
気を付けること
信貴山から「空鉢護法堂」を通り「信貴山城・松永屋敷」までは、ゆっくり歩いて大体往復2~2.5時間は見てもらった方がいいと思います。
松永屋敷へ行く場合は、歩きやすい道を作ってくれてるとはいえかなり急な坂もありますので、暗くなる前に戻るように気を付けてください。
私も途中の坂で足をひねりそうになったのですが、けがをしてしまっても全然人が通らないので危険です。
スマートフォンの地図が見れたので電話は通じるかもしれませんが、十分に気をつけてください。
まとめ
お寺の方におすすめされて軽い気持ちで登った「空鉢護法堂」「松永屋敷」でしたが、信貴山のお寺参りを含めると結構な運動になりました。
お寺の方は「弾正さん、弾正さん(松永久秀のこと)」とお話をされていたので、松永久秀はこの付近に住まわれている方には今でも慕われているのだなぁと実感しました。
ちなみに近鉄でひと駅先の王寺駅にある「達磨寺」には、筒井順慶がたてた松永久秀のお墓もあるので時間があればぜひ見に行ってみてください。
実際に行ってみた私の意見としては、松永久秀屋敷跡のみを目指して行かれるとただの広場としか見えなくてがっくりするかもしれないなと思いました。
かなり歩いたのに「こ、これだけぇ?」となってしまうかもしれません。
ただ、歴史に詳しい方や、お城に詳しい方ならば、十分に昔に思いを馳せることが出来るかと思います(なにせ人が全然こない)
せっかく山に登られるのでしたら、頂上の「空鉢護法堂」からの景色も素晴らしいので、堪能していってくださいね。
コロナの時期でも周りを気にせずのんびりと森林浴ができる「信貴山城」「松永屋敷」に一度行ってみてください!